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2007年10月31日

オルメカ文明についての知識をつけましょう

オルメカ文明はなぞですよね


オルメカ(Olmeca、オルメカ文化、オルメカ文明)は、メキシコ湾岸のベラクルス州南部からタバスコ州を中心としてメソアメリカ全域に先古典期の紀元前1250年頃から紀元前後にわたって栄えた文化、文明の名称。もともとはナワトル語で、「ゴムの地の人」という意味でスペイン人到来時に、メキシコ湾岸南部に住んでいた人々を指した。しかし、アステカ時代である後古典期にその地に住んでいた人々がオルメカ文明の担い手であったわけではなく、この名称が先古典期にメキシコ湾岸で繁栄した文明の呼称として一般的に広く定着しているために「オルメカ」の名称を用いている。

特徴として、メキシコ湾岸のサン=ロレンソ(San Lorenzo)、ラ・ベンタ(La Venta)、トレス=サポーテス(Tres Zapotes)に見られるネグロイド的風貌の巨石人頭像(Colossal Head)、球戯者の像、レスラーのような格闘技を行なう者の像、「ジャガー=人間」の神、ベビー=フェース像と呼ばれる石彫やレリーフに見られる像である。ベビー=フェース像は、しばしば、頭蓋変形をなされた細い頭で表現される。また翡翠や蛇紋岩製の磨製石斧を並べたり、ラ=ヴェンタでは、ジャガー神の顔を表現したと考えられる敷石遺構が見られる。これらは、翡翠の象徴する水、斧の象徴する焼畑農耕、雷、雨神を表し、一種の儀式に用いられたと考えられている。【ウィキペディアWikipediaより引用】

この時代はある意味楽しそうですね。


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2007年10月01日

深刻です北方領土問題


A.歯舞諸島(歯舞群島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある


概要
地理的には南千島に属するが、色丹島及び歯舞諸島については北海道本島の属島という見方もある。アイヌ民族が先住していた。

太平洋戦争(大東亜戦争)後、現在に至るまで、ソ連・ロシア連邦に占領・実効支配されており、日本は固有の領土としてその返還を求めている。現在、日本人の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対して、ビザなし渡航が日露双方に一部認められている。

なお、北千島を含めた千島列島全体の返還を主張している主要政党は日本共産党だけである。全千島は樺太・千島交換条約で平和裡に手に入れた領土だからという主張である。また、日本の一部には日ソ基本条約などを根拠に「南樺太・千島列島全島返還論」もある。

日本が「国際法上所属未定」と主張する中、日本以外の多くの国は、中・北千島や南樺太については、ロシアの領有権を事実上認めるようになっている。海外の地図はすべて、中・北千島と南樺太をロシア領として処理している。「北方領土」についても、やはりロシア領と地図上で表現する例がほとんどであり、根室海峡のみに国境線がひかれているが、あわせて地図上の「北方領土」部分に「ロシアが施政権を行使(ないしは占領)、日本が返還要求」という趣旨の記述を加えている地図出版社も見られる。 [1]

日本政府は2001年、南サハリンのユジノサハリンスク(旧、日本名:豊原)にロシアへの公式外交使節として領事館を設置した。


領土問題
ロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している諸島を、日本が返還を求めている領土問題。

1945年8月8日、ソ連は、同年2月のヤルタ協定に基づき、日本に対して宣戦布告、8月9日より戦争状態に突入した。ソ連はれっきとした連合国の一員であるにもかかわらず、日本は、日ソ中立条約の形式的な有効性を信じ込み、連合国との講和をスターリンのソ連に依頼する愚挙を試みて降伏を先延ばしにした挙句、この宣戦布告を招いたものである。8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、1945年8月28日から9月5日にかけてソ連軍は北方領土に侵攻。北方領土は現在に至るまで戦後約61年に渡りソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。ロシアによる事実上の領有状態の為、日本政府が領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでいない。

北方領土関係史
日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争(大東亜戦争)以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が日本人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られているので厳密に言えば、日本政府の説明は正しいとはいえない。

1855年
日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。
1869年
蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。
1875年
日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「それまでロシア領だった千島諸島のグループ(le groupe des îles dites Kouriles qu'elle possède actuellement)」を日本領、日本とロシアの共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領とした。この条約はフランス語が正文であったので、日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。
条約締結後、当時の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、得撫島以北を編入し、国後島から占守島までが千島国になった。
(1904年-1905年 日露戦争。ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された。)
(1917年-1918年 ロシア革命)
(1918年-1922年 シベリア出兵)
(1931年 満州事変勃発)
(1937年 日中戦争勃発)
(1941年 日米開戦)
1943年
10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。この席上、米国はソ連に対して、南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに、対日参戦することを求めた。続いて11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この時も米国のローズベルト大統領が南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに、ドイツ降伏後の対日参戦を求めた。
テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰する為に戦争をしていること、日本の無条件降伏を求めることが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
1945年2月
ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
1945年8月?9月
8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏するとされていなかったため、スターリンは、ヤルタ協定に基づき、ソ連軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。しかし、同時にスターリンが要求した、北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。
8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。
1946年?1949年
1946年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
北方領土には日本人は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本人の本国帰還は認められなかった。1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本人が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
1951年
サンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島を放棄する。平和条約国会で、政府は、日本が放棄した千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している。(この説明は1956年2月に変更された。)
1956年
日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。領土についてはじめ日本は南樺太・全千島の返還を要求したが、当然それは認められず、譲歩を重ねた末、歯舞諸島・色丹両島の返還で平和条約締結に合意しようとした。そのとき、米国が介入、国後・択捉の返還を要求しないならば沖縄をグアムと同じような米国の属領にすると恫喝し、合意を阻止。結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞諸島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。[2]。
1957年
ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
1960年
岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞諸島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
1973年
田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)
1981年
北方領土の日設定。毎年2月7日を北方領土の日とする。
1991年
ソビエト連邦は解体、ロシア連邦として独立し、領土問題を引き継ぐ。